エッセイ

夜空に大輪の花が咲くとき

先日、僕の地元で祭りが開催された。
もともとは先週行われるはずだったのだが、台風の影響で延期されていたのだ。
この祭りのメインは、440年以上の歴史を持つ大綱曳なのだが、僕のお目当ては祭り最終日に行われる「花火」。
やはり、夏といえば花火なのだ、と僕は考えている。

と言いながら、僕は中学生のころまで花火が大の苦手だったと記憶している。
あの大きな音が怖くてしかたなかったのだ。
巨大な音とともに、お腹の中がブルブルと揺れるような感覚。
内臓をグッとつかまれて、縦、横、斜めと縦横無尽に引っ掻き回されるような感じに、僕は恐怖を感じていたのだと、今になっては思う。

その延長なのかはわからないのだが、いまだに雷が怖い。
特に、落雷の音は恐怖だ。
落雷した瞬間の何かが炸裂した音は、どんなに平静を保っていようとしても体が大きく痙攣してしまう。

このように、大きな音が大嫌いな男が、なぜ「夏といえば花火」と考えるまでになったのだろうか。
これは、このエッセイで何度も触れてきているので、お気づきの方は多いのではないだろうか?
そう、女性とデートしたときに花火を見ることができなければかっこ悪いからだ。
想像してみてほしい。
彼女と見に行った花火大会。
会場で夜空を見上げながら、花火が打ち上がるのを待つ二人。
そっと手を握り、ふと見つめ合い恥ずかしそうに笑う。
花火が打ち上がる。
僕は悲鳴を上げて彼女にしがみつく。
まったくかっこよくない。
これでは振られる要素満載ではないか。

まったく、なんとも下賎な考えだ。
書いていて、自分でも恥ずかしくて顔が真っ赤になってしまう。
だが、これが隠すことのない、真っ直ぐな僕の心なのだから仕方ない。

そんな話をしながら、僕は女性とのデートで花火を見に行ったことがない。
京都にいた頃、機会は何度でもあったはずだ。
廃止されてしまったが、宇治川花火大会にも行けただろうし、大阪まで足を伸ばせば天神祭奉納花火にもいけただろう。

が、僕はついに花火大会を彼女と一緒に見に行くことはなかった。
最大の要因は、僕も歴代の彼女たちも人混みが大嫌いだったからだ。
これは完全に致命的。
お祭りや花火大会は人混みの最たるものだからだ。

祇園祭に出かけたことはあるが、京都の夏の暑さと人々からの熱気に二人ともやられてしまった。
それに追い討ちをかけるように、雷雨にみまわれ、ずぶ濡れのまま電車に乗って帰った記憶がある。

振り返ってみたが、これはもう「彼女と花火なんて経験できるはずがないではないか!」という絶望に打ちひしがれてしまった。

ドーン!

一発目の花火の音が、僕を現実世界に呼び戻す。
細切れに花火が上がり続ける。
集まった人々から感嘆の声が上がる。
子どもたちのはしゃぎ声も聞こえてくる。

僕は、花火を祭り会場で見たわけではない。
ちょっと離れた、鑑賞にピッタリな花火スポットから見ていたのだ。
それを知っている地元の人たちも集まり、花火を鑑賞する。

ふと、僕のそばを見てみる。
そこには一人の女性がはしゃぐように写真を撮っている。
そう、それはもちろん…母だった。

夜空には花火が咲き誇り、母の顔を緑や赤に初めているのを僕は、横目で見ている。
「きれいだねぇ」とスマホを構える母の姿を視界の隅に入れながら、僕は「来年こそは彼女と!」と固く心に誓うのだった。

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