エッセイ

8月15日に想う

8月15日、終戦の日に僕は思う。
本当に世界中に平和が訪れることはあるのだろうか?と。
ウクライナでは侵略戦争が続き、ガザでは一般市民を巻き込んだ戦闘が続いている。
日本周辺もきな臭い。
いつ、何が起きてもおかしくない状況だ。

沖縄に生まれ、沖縄に住んでいるからだろうか。
僕は平和について考えることがよくある。
いや、考えずにはいられないのだろう。
基地のフェンスが日常生活の風景として溶け込み、戦闘機の轟音が頭上を通り過ぎていく。
そんな沖縄に住んでいるからこそ、平和という言葉が、決して当たり前のものではないと肌で感じるのだ。
また、沖縄では戦争を経験した身内が近くにいることも理由の一つだろう。
その人たちの言葉を通じて、戦争の悲惨さを聞いているからだ。

しかし、僕はその機会を身内から得る機会はなかった。
祖父は戦争で亡くなり、伯母と母は戦争当時幼く、はっきりとした記憶がないのだ。
そんな僕が戦争の悲惨さを知ったのは、歴史の教科書からではない。
もしあの時、一つの言葉が実行されていたら、今ここにいる私自身が存在しなかったという、母の記憶からだ。

それは、ガマ(自然洞窟のこと)に避難していたときのこと。
まだ生まれたばかりだった母を抱いている祖母に対し、こう言われたそうだ。

「赤ん坊が泣くと敵に見つかるから殺せ」

恐ろしい言葉だ。
もし、母がこのとき命を落としていたら、僕自身も今、こうやって文章を書くこともできなかったのである。
戦争は、人間が人間でなくなる。
優しかったはずの人が、人を殺せと命令してしまうほどに、性格が一変するそうだ。

自分の身近に戦争で殺されかけた人がいれば、戦争と平和について考えるようになるだろう。
だから、僕はさらに深いところを考えたいと思うようになった。
平和のために必要なものは何か?ということを。

と、ここまで書いておきながら、僕にはその深部に達するほどの知識をいまだに持ち合わせていない。
平和を求めることは、間違いではない。
しかし、ただ「平和、平和」と唱えることは、果たして本当に平和につながるものなのだろうか。
そのような考えが首をもたげてくる。

当然のことながら、何事も平和的な解決が一番であることに間違いはない。
だが、平和的に解決できないから世界各地で戦争や紛争がやまないのではないだろうか。
それはつまり、結局のところ武力が必要だということなのだろうか。

僕の思考はそこで逡巡してしまう。
平和的に解決することと、それを担保するためには何かが必要なのだ。
それは経済力であったり、武力であったりする。
この考えが絡まり合い、僕の思考能力を奪い去ってしまう。

ただ、一つだけ言えることがある。
戦争は決して良いことを生み出さない。
「いや、科学の進歩をもたらす」
という人もいる。
が、人の命を大量に奪ってもたらされる科学の進歩は、僕は認めたくない。
科学の進歩は、人間の尊厳を守りつつ進化させるものであるべきではないだろうか。

僕の頭の中は、いつも8月15日にショートしてしまう。
「武力がなければ平和は脅かされてしまう」という冷たい現実と、「その武力こそが悲劇を生む」という紛れもない事実。
その二つの間で立ち尽くし、答えを見つけられないまま、また一年が過ぎていく。
平和とはいったい何か。
平和な世界を実現するためにはいったい何が必要なのか。
僕の頭はまた来年ショートするのだろう。

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