月に1冊も本を読まないという人が6割を超えたという。
活字中毒の僕にとっては考えられないことなのだが、今や時代は動画で学ぶ時代だ。
高校生の8割が学習にYouTubeを使っているらしい。
僕自身、YouTubeを見て学ぶことがあるので「なるほどな」と納得してしまう。
なにせ、動画で見たほうが記憶に残るし、実際に見ることができるので理解しやすい。
その反面、僕はライターとして文章を書いてお金をもらう立場の人間として、「動画に負けてなるものか!」という矜持がある。
だが、文字だけだとわかりにくいこともあるし、文章が拙ければ理解してもらうこともままならない。
ここは僕自身も非常に葛藤があるところだ。

文章の魅力は「自分で考えながら、マイペースで進められる」ことにあると考えている。
マイペースという点は、動画も同じだろうと思う人もいるはずだ。
確かに、マイペースで進めることはできるが、わからなかったところや見逃したところは、いちいち戻って見直す必要がある。
しかし、ここでいうマイペースとは、一行をじっくり味わうペースのことだ。
だから文章は、わかるまで読み込むことができるという点で動画と異なる。
そして、一番の魅力は「自分で考える」という点だ。
動画では、自分で考えることが難しい。
というのは、答えがすべて見えてしまうからだ。
「これはこうすればいい」「この次はこうすればいい」と、一連の流れがわかるため考える必要がない、と僕は考えている。
ところが、文章はそうはいかない。
文章を読む際、僕たちはその情景や図式を「自力で」頭の中に描かなくてはいけないのだ。
わからないからといって、先に進んでも答えがなく、余計にわからなくなることも多々ある。
そうなると、文章を読んでいる意味さえわからなくなり、途中で離脱してしまうだろう。
また、ある箇所を理解するためには別の文章にあたらなくてはいけないこともあるため、脳がパンクしそうになることも。
さらに、その別の文章でわからないことがあると、そこでも自分で考える必要が出てくる。
まさに、文章は文字の迷宮だ。
中心部にミノタウロスがいないだけが救いかもしれない。
それでも、僕は文章の方が好きだ。
自分で考えるから、知識が定着する感じがするし、「わからないことに立ち向かう自分、カッケー!」という自己満足に浸ることもできる。
「すべての者は生まれながらに知恵を求める」
これはアリストテレスの言葉だったと記憶している。
人間は本質的に知識欲を有しているのだ。
知識欲を満たした瞬間の恍惚感は、ある種性欲を満たした瞬間にも似ているかもしれない。
だからこそ、簡単に理解できてしまう動画よりも、僕は少しだけ理解が難しい文章を選んでいるのかもしれない。
だからこそ、僕は書き続けたいのだ。
この文字の迷宮をさまよう恍惚感を、まだ知らない誰かに届けるために。