人は心の中にそれぞれの「正義」を持っている。だからこそ、その「正義」を通すためにぶつかり合い、葛藤するのではないだろうか?
そんな風に深く考えさせられた映画が、クリント・イーストウッド監督の「陪審員2番」だ。
日本に置き換えると、「もし、自分が裁判員になったら…」と考えてしまう、そんな作品と出会った。
主人公はニコラス・ホルト演じるタウン紙の記者、ジャスティン・ケンプ。
出産間近の奥さんと穏やかに暮らしていた。
そこに、1通の陪審員召集状が届くことから話が始まる。
担当することになった裁判は恋人をケンカの末に殺害したという男のもの。
男が犯人だとする証拠、証言がある中、男の弁護士だけは彼が無実であることを確信し、裁判に臨む。
「陪審制は正義をもたらす最善の手段」
この言葉が、映画が進んでいくにつれて重さを増した。
ケンプは裁判を通して、自分自身の罪を思い出し、大きな葛藤の中におちいっていく。
その罪を告白すれば、彼の人生が崩壊してしまうという局面に直面することになる。
彼は次第に精神的に追い詰められていくことになるのだが、自分から罪を告白することへの恐怖にさいなまれてしまう。
また、この事件を担当する検事、フェイス・キルブルー(トニ・コレット)も次第に自分自身が信じていたものに揺らぎを感じるようになる。
検事長選挙を有利にするために、世間で注目を集める本件被告人を有罪にしたいという思いから、「真実」を追求することを見失っていたのだ。
「自分が正しいと信じきると誤りに気づかない」
人は誰でも、自分が正しいと信じきっているものを疑おうとしない。
そこに「認知バイアス」がかかり、矛盾点があったとしても己の正義を貫こうとしてしまう。
決して、自分の過ちを認めようとはしないのだ。
キルブルーが違ったのは、その点にある。
彼女は自分に生じた矛盾を解決しようと動き出す。
正しいと信じきったものが誤りであった場合、彼女の判断は無実の人間の人生を壊してしまうことになるからだ。
映画の終わりに彼女はこう述べる。
「全力を尽くしても誤るときがある。ふたを開けてみれば、真犯人はサイコパスでもない、悪党でもない、ごく普通の男なの」
陪審制という、「正義」をもたらす「最善の手段」が、もしも歪められることがあったら。
それも、事件の最初から見当違いのものだったとしたら。
それが原因で、誰かの人生を壊してしまったら。
僕たちは、裁判とは正しいものだと信じきっている。
しかし、裁判の前の過程で過ちが発生し、過ちが正されないまま私たちが有罪や無罪、刑期を判断しなくてはいけなかったら…。
そこに「正義」はあるのだろうか?
それは「最善の手段」なのだろうか?
クリント・イーストウッド作品に流れる「道徳的判断」という、重い雰囲気が映画が進むにつれて僕たちに重くのしかかってくる。
イーストウッド監督特有の、彩度を抑えた重厚な映像と、登場人物の表情をじっくりと捉えるカメラワークが、セリフ以上に彼らの心の重圧を物語っているからだ。
果たして、僕たちの考える「正義」は正しいものなのか、それとも信じきってしまっているが故に「誤り」に気づけないものなのか。
裁判劇として楽しめる本作だが、その根底に流れる問題提起と対峙し、「正義」とは何かについて考えてみるきっかけにもなる、そんな作品が「陪審員2番」ではないだろうか。